まち歩き "地元の歴史と文化をもっと知ろう"
「江之子島、川口居留地」
講師 NPOまちらぼ代表 陸奥 賢先生
第2回のまち歩きです。分明開化は西区から始まりました。
明治の初期、欧米の文化、経済の窓口にあった川口居留地を訪ねました。気象情報は雨の予想でした。いつ雨になるのか心配しました。曇り空で雨が降ってもおかしくない湿度の高い条件でしたが何とか雨が免れました。文明の先端と遊郭の松島の関係も不思議な思いがします。
① 大阪府江之子島庁舎跡
大阪府は西町奉行所の跡地を庁舎として利用していましたが、明治7年(1 874)に江之子島に新築移転しました。新庁舎は高さ約30mの2階建て西洋建築でした。大正15年(1926)に移転するまで50年以上この地で大阪府政は行われ、地名から「江之子島政府」とも呼ばれました。明治初期の大阪は西から発展してゆくと考えられたため、西側、つまり居留地側を正面玄関としていました。
② 木津川橋
慶応4年(1868)に架けられた木津川橋を渡った先に川口居留地がありました。木津川橋は明治9年(1876)に木橋から鉄橋に架け替えられ、馬車道と歩道が区別されました。
③ 大坂船手会所跡
官船管理、民間商船管理を業務とする大坂船手という幕府老中所管の役職が置かれ、その配下には与力、水主が置かれていました。
④川口居留地の選定
「出船干般、入船干般」と言われる程、船の往来が激しかった安治川及び木津川を遡ると、両川の分流地点には船番所があり、船蔵、船手屋敷が立ち並んでいました。ここが戎島の北端・川口でした。幕府と諸外国間に結ばれ、川口に居留地が設けられることとなり、居留地に隣接する地域が内外国人雑居地として選定されました。
⑤川口居留地の自治
川口、神戸居留地では居留民による自治行政が実施されました。各国の領事や副領事を中心に居留地でのあらゆる問題が討議され、解決に導かれました。
⑥川口の居留民
川口に暮らし始めた商人の多くは次第に神戸へと移ってしまいました。その理由としては大阪港よりも神戸港が良港で貿易に都合の良かったこと、大阪での商売がうまく行かなかったことなどがあります。商人たちが立ち退いた後に多くの宣教師たちが入り、川口居留民の構成は大きく変化しま した。宣教師たちはミッション・スクールで子女教育に取り組み、川口生まれの名門校は今も各地に残っています。
⑦ 松島遊郭跡
川口居留民のために、大阪府は市中の遊所を松島に集め、明治2年(1869)に松島遊郭 を設けました。また、大阪府自ら客引きの目玉として、金獅子が屋根に載った白亜三層の妓楼・松鶴楼を建築しました。松島は遊郭として東の吉原と比較される程の賑わいを見せ、芝居小屋もあり、桜の名所としても有名でした。
昔遊び 手づくりおもちゃでLet'sコミュニケーション
昔遊び 手づくりおもちゃでLet'sコミュニケーション
講師 大阪市SA連絡協議会 新鞍 清彦会長 中田 重幸先生
1. なかまづくり(ジャンケングーム他)
2. 手づくりおもちゃ
① サイコロパズル(頭の体操)
② ストローコプター (牛乳の羽根にストローを差し込んで作るたけとんぼ)
③ ブンブンゴマ(松風ごま)
子供のころに遊んだおもちゃが懐かしい。おもちゃ作りは楽しかった。自分で作るとうれしい!
ブンブンごま、ひものちから加減でよく回りました。